本日は虚 弔様 主催
藍色の向こう側
を拝見してきました。
感想・考察を書くのも久しぶりですね。
暫く、書くための思考とか力がなかった(無かったと言うよりかは力を出そうとするとダメージを負っていた)のですが、ちょっと書いてみようと思い、書いています。
正直な感想を書くと、羨ましい世界だな。と感じました。
自由という概念があります。それは人により異なります。
何もしない事が自由という人もいますし、何でもできる事が自由という人もいます。
千差万別ではありますが、それらは喜怒哀楽のいずれかに依存しているのだと、自分は思っています。
そういう意味では自由とは何かに依存していると思えるのです。
ですが、一般的には自由とはそれらに縛られない事を指し示します。
では、真の自由とはなにか。
今回の作品が示したように「死」であるというのは、一つの答えです。決して、正しくはないですが、回答としての拒絶はできないと思います。
今回の作品では、愛や憧れ、嫉妬という感情的な側面と軟禁、金という形で依存を表していたと思います。
人生を「楽(らく・たの-しい)」に生きるにはそれらに依存して、寄りかかるのが気持ち的にも重圧にはならないではないかと思います。
ですが、ここで厄介なのが、依存先が自身の思い通り、自分の願ったような形にならない事です。依存が少なければ、多少の変化は気になりませんが、大きくなれば多少のうねりが大きな混沌になります。結果として、自分の世界が壊れてしまう事もあるでしょう。
こうならないためにも、人間は繋がりというものを求めるのだと思うのです。
感情や情動など足りない部分を補い、埋め合うのがヒトなんだと思います。
そこには繋ぐ人、憂う人、喜ぶ人、悲しむ人などたくさんの要素があります。
故に繋がれば強固です、ですが、無視できないうねりの発生が簡単にできやすいとも言えるのです。
逆を言えば、それを調律する人もいます。
今回でいえば迎 悠斗さん演じる牛界悠聴がそんな人だったのでしょう。誰かの話を聞き、ゆがみを治す。完全に取り除くのではないのですが、良い方向に導くという人物が必要です。
ですが、良くも悪くもこのタイプの人は人の人生に踏み込みすぎないのだと思います。
姫野 美咲さん演じる芽音夕楽は人の愛を求める人物でした。社会を強く戦うゆえに人に愛を求め、依存先を求めた人物です。 牛界悠聴は想いを寄せていたのですが、調律に重きを置きすぎた故に、踏み込めなかったのだと思います。
最終的には 芽音夕楽は死を選んだ人物の1人です。補えきれず、満たされきれない事が続く事が怖かったのだと思います。そして、とても共感ができます。
虚 弔さんが演じた越地奏多も死を選んだ、望んだ人物です。それは自由を望むゆえでした。越地奏多の場合は調律者がいなかった故に死を望んだのだと思います。親や鈴音により歪んで歪んで歪み切った。そして、死という矛盾を孕んだ自由を望んだのだと思います。
自由を望む、つまりは、自分の望んだ世界を望むと言うのは生きている事で間違った事ではありません。ですが、それが死につながるというのは歪んでいると言えてしまうのです。
しかし、自分のそれを望んだ人物の1人です。その結末を選んだ、選べた、彼らをある意味羨ましいと思いました。
ですが、この作品を観て、自分は違う道を選ぼうと思えます。
藍色の向こう側を「虚弔らしい」と言われているとポストしているのをみました。
今ならよくわかります。
死を望むのは決して感情としては間違っていないけど、選ぶのは間違ってる。
死は美しいけど、呑まれてはいけない。
虚さんの作品、姿勢からは自分は「死を肯定した上での否定」を感じています。
それを今回作品として観させていただきとても幸運だと思いました。
そういう意味では自分は虚さんを調律者だと思います。
間違いなく精神にダメージは負いましたが、きっと治れば強くなる傷になる、素敵な作品でした!
では、また。