本日は福士 真未様、小川 春樹様 ご出演
詭弁師のレトラ
を拝見してきました。
自分にとって、思い入れのある特別な劇団であるヱウレーカさんで福士さんの活躍を観れた事を大変嬉しく思います。
そんな中、物語のテーマが「薬と言葉」という自らの人生において、大事にしている、かつ、苦心している事だというのは、身勝手ではありますが、宿命だと思っています。
自分は薬剤師です。そして、もう一つの側面は精神の薬を飲んでいた患者でもありました。ほんの2年前ほどの話です。
人の健康を願いながら、他人の心無い言葉に傷付き、逃げようとして、逃げる勇気すら持ちきれませんでした。
薬を使っても逃げきれない現実に、言葉で自分を救ってくれた人がいました。
今は精神の薬は飲んでいませんが、薬剤師ですから自分の薬ではなく患者さんの薬に関しては毎日苦心しています。そして、困っている患者にどう言葉を届けるか悩む日々を過ごしています。だからこそ、この物語は特別になりました。
詭弁師と製薬会社、今回は2つの勢力が出てきました。
あえて書くなら詭弁師は光、製薬会社は闇の勢力だったと言えるでしょう。この時に大事なのが、善悪ではない。という点だと思います。
勧善懲悪、例えば、ヒーローショーのような世界では、光は正義、闇は悪、であるといえます。
ですが、日常はどうでしょう。人間という厄介な生命体はそのどちらをも抱えて生きるのです。そこに良い、悪いもありません。何があるのかをあえて書くなら「仕方ない」が存在するのではないでしょうか。
日暮がアレルヤを作るのは、失った友を取り戻したい、それは彼にとっての光です。しかし、それゆえに他のことに盲目になり、自らの光意外を無視する姿は結城には彼が闇に染まっているように見えたのだと思います。また、同時にかつての過ちを繰り返さないために、手の届く範囲の光である家族を治験対象にしてしまったフタバも結城には理解し難かったのだと思います。
では、詭弁師はどうでしょうか。光は暖かく、世を照らしてくれます。ですが、強すぎる光は刺激が強く、目を焼かれてしまうでしょう。詭弁師において強すぎる光とは「正論」ではないでしょうか。正しいという事は間違いを否定するという事。誤りを受け入れぬ正しさは時に人を傷つけます。沙汰が双子に投げかけた言葉は強すぎる、まだ幼子には受け入れ難い光だったのでしょう。この作品内で「正論」と似て非なる言葉として「真っ直ぐな言葉」というものがあると思います。真っ直ぐに投げかけるというのは難しいです。ただ、前に言葉を投げるのではなく、相手の構えているところに投げかける必要があります。それこそ、相手を受け入れ、どのような言葉の玉を投げれば良いか、という事が大事になるでしょう。桃瀬は愛によって、それができていたのだと思います。愛する、という事は相手を受け入れる事です。これができるゆえに、相手の気持ちに真っ直ぐ投げかける事ができたのでしょう。だからこそ、アマネという歪んだ心を受け入れ、幾層にもなった心の壁を打ち破る真っ直ぐな言葉を投げかける事ができたのだと思います。
星乃はというと、まっすぐな言葉にあこがれていて、しかし、うまく自身を受け入れることができず、自らを信仰させる変化球になっていました。しかし、夜空になりたい、という自らへの真っ直ぐな言葉によって、相手へ直線的な言葉を投げられるようになったと思います。夜空というのは月や星の光を受け入れ、世を照らします。だからこそ、チカゲのようなうまく輝けることができなくなってしまった光をまた輝けるようにできたのでしょう。
愛と夜空、その2つは受け入れるというキーワードで繋がっており、それを認めたゆえに2人とも言の葉が見えるようになったのでしょう。では、法螺は何を受け入れたのでしょうか。法螺の武器は嘘です。3人の中で1番光寄りではないのが法螺であり、自身もそれを理解していたと思います。ゆえに、自信がなく、自らを受け入れられませんでした。ある意味では詭弁師でありながら、真っ直ぐな言葉の力を信じてないと言えるでしょう。ですが、最後の場面では自らの弱さを受け入れ、それでも戦い、それを肯定してくれる仲間の真っ直ぐな言葉で覚醒したんだと考えています。
詭弁師の言葉は気持ちを、製薬会社の薬は薬効を、発さなければ意味を持ちません。
言霊、イロハ、ホヘトとアレルヤ、エリテマ、トーデス。彼女たちは対の存在として表されていましたが、アレルヤも言霊の一種であるという結末を迎えました。
アレルヤの力があれば人は言葉を、意識を、失うことができます。気持ちは発さなければ伝わりませんし、意識がなければ受け入れる必要もないのです。
それはきっと、楽な人生なのでしょう。