残りし断片を紡ぐ影 感想

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本日はハラグチリサ様ご出演

残りし断片を紡ぐ影

を拝見してきました。

 

久々の富士見台です!!

ある意味、因縁の富士見台でもあります。

 

今回のお話は宗教、特に宗教にまつわる『神』の話、でしたね。

皆様は神様に関してどう思うでしょうか。

自分は神様は「いない」と考えています。ただ、神様の存在を否定しているわけではありません。神様は目に見えない、故に、いない、と考えています。そして、神様はいないゆえに存在しているということができると思います。

今回の舞台の宗教団体、「神魅成身の会」では、それぞれが、自身の神、「私神」を崇めていました。つまりは、それぞれによって神が異なるという事です。現実の仏教やキリスト教とは異なり、それぞれの教えを持つ神が存在することになります。言い方をかえると、その人以外には存在しない神であるともいえると思います。実体が「いない」。それ故に、それぞれの異なる志向を反映させる形で存在できることができると思うのです。教主や僧により、現実の宗教は一定の教えにより、ある程度は同じ形態を持神をそれぞれに抱くことができます。しかしながら、仏像や書物によって形や解釈が微妙に異なるように、人の心の中では神の「形」は人により少し異なるのだと思われます。

また、神話などのキャラクター性が固定化された神は除きますが、宗教の神そのものには善悪はないと思われます。そこにあるのは「正しさ」という概念のみであると考えています。これは戦争などいわゆる人に害を与えながら己の考える利益を追求する行為を行う際に、正しい、間違っているを踏み倒した「正しさ」である場合も多々あります。

今回の主人公、嵯峨島岳の行為はこのような己の中の神の「形」を信じ、その神のいう「正しさ」を行った結果、人を殺すという行為に至ったのでしょう。彼は自身の「神」から「正しく」導かれた。それは信ずるものから許された、認められたという自己陶酔を得ることができるのです。

なぜこのような行為に至ったのかと事情聴取を行うシーンで彼が嬉々として語っていたのは、彼が「正しさ」を語っていたからなのでしょう。人は他者に正論をたたきつける際はうれしそうな顔になるものです。それが心酔している考えならなおさらです。

もう一つの考え方としては、もともと、岳の頭の中に人殺しを行うという事が「美しい」ことであるというのが考えであったのかもしれません。しかし、誰しもがわかるようにそれは「間違った」行為です。ですが、宗教を信ずることによって、自身の後ろめたい気持ちを自身の作り上げた他者に委ね、自身を肯定するという事をしたのであるとも考えられます。

「神魅成身の会」においては、「神」は自身が作り上げたものでした。しかし、初めからは神は存在しない。いつか、降りてくる。つまり、「神」とは自身が自身の考えを神聖視かしたときにはじめて形作られる。あの作品においては神は「自身」であったのかもしれません。ただ、深水と火坂を除いては…

さて、推し語りです。

ハラグチさんが演じる火坂はとっても神秘的でしたね。所謂集会の場では神秘的、ただ、深水の前だと少し幼くなる。これは、ある意味では神様ゆえの神秘性との二面性であったのではないかと思います。揺らめくさまがなんとも神秘的で素敵でした。

僕自身は宗教を悪いことだとは考えていません。日本というありとあらゆるものには神様がいて物を大切にする文化は素晴らしいと考えています。ただ、なぜここまで宗教が悪いものだととらわれているかは、それを利用しあくどいお金稼ぎや卑劣な犯罪に身を染めるものがいるからであると考えられます。きっと、深水自身は宗教を通して、人を純粋に救いたい人間であったと思われます。

宗教に「正しく」救われる難しさ、そんなことを感じる作品でした。