memory team 星 感想

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本日は虚弔様、ハラグチリサ様ご出演

memory team 星

を拝見してきました。

ハラグチさんが代表をつとめるぴぴすとれっろの初めての公演です。

昨年から情報は聞いていたので、本日がとても楽しみでした。

 

今回の物語は

自分たちと同じヒトが住む世界であり、みな、日常を送っているが異なることが1つだけある。それはヒト1人に対してウサギが1羽存在するということ。それらのヒトとウサギが繰り広げるお話。

です。

 

今回のお話しには4人のヒトが登場します。その中には1人、自分のウサギが存在しない、だけれども他人のウサギを認識することができるヒトが存在します。ウサギとヒトは精神を共有しており、ウサギはつがいとなる人の意識に強く影響を受けます。ですが、ウサギが見えないとはどういうことなのでしょうか、また、ウサギって何だろうという点に関して考察しつつ感想を述べることにします。

 

この世界ではウサギは大人になるにつれて見えなくなっていくようです。そして、それはウサギたちには喜ばしいこととされています。つまり、大人になる=ウサギのことが見えなくなる。ということといえるでしょう。

この設定自体はかなりお話の序盤に出てくるので、初め自分はウサギはヒトの幼児性の表れなのだろうかと思っていました。もしくは幼少期の人格形成の具現化ではないかとも考えました。実際にこの話の主人公であるトワは大人びていますし、自分のウサギであるエンを認識していませんでした。それは幼少期の記憶を封印したということ。ウサギがいるということを押し殺したということなのではないかとおもいます。

ですが、ウサギ自体には共通した行動目標があるようです。

それは間違えぬ道を歩むこと。

実はこの1文を書くのに台本を読みなおしました。

物語の中でウサギたちが行う行動や心情に関するシーンがあったのですが、たぶん記載がないのです。

これはどういうことか、考えました。

もちろん後で追加され記載はないという可能性もあるでしょう。

では、何のために追加したのか…

それは彼女たち自身も何かを抱えているということを表現したかったのではないかと思います。

基本的にウサギとヒトはシンクロしていて、主従とは異なりますが、ウサギの心はヒトに依存するものです。しかしながら、それでいてもウサギそれぞれにヒトを思うための信念があり、それを表現しているのではないかと思いました。

ここまで考えていくとウサギが幼児性ではなく、道徳観や価値観を反映していると考えることができます。

自分が今回の舞台の中でウサギはヒトを反映しているという設定で印象に残ったシーンがあります。それはルカが自傷するシーンでスクが悲鳴を上げるシーンです。はじめはただ痛み自体もウサギにトレースされるんだろうからな。と思っていましたが、べつのシーンで睡眠不足のセツをミスミが寝るように促すシーンがあります。このことから察するにヒトの肉体的影響はウサギには反映していない(もしくはあまりしない)のではないかと考えられます。

この後にセツがルカに対して望みをか叶えるために肉体を傷つけるシーンがあるのですが、そこではスクは自傷した際ほど苦しんではいませんでした。

このことから、ウサギたちが感じる痛みは、主人の肉体的ダメージを反映しているのではなく、精神的な痛みを反映しているといえると思います。

ルカが自傷するシーンでスクが傷ついたのは、己を傷つけるのが痛いのではなく、そうしようもなく壊してほしいけど、自分でするしかない痛みだったのではないでしょうか。

そうなってくるとトワが過去の消したい記憶を思い出す際にエンが苦しんでいたのがよくわかります。

トワ自身の記憶は察するに可逆からくる記憶なのだと思います。それを押し殺すためにエンが見えなくなった。しかし、思い出そうとすることで、エンは苦しみますがトワは再びエンが見えるようになります。

ここまで考えて、自分はウサギに対して何者であるかの仮説を立てました。

それはウサギたちはヒトの深層心理の守り人ではないかということです。

ヒトには忘れたい記憶があるでしょう。それらの門番をしているのがウサギではないかと思うのです。

トワは自身の深層心理にあるトラウマを見たくなくてエンを見えなくするという方法をとりました。ですが、ミツキとの出会いによってもう一度閉ざされた過去に触れようとしたため再度エンが見えるようになったのではないでしょうか。

ルカはウサギが見えなくなることを恐れています。それは深層心理、いわゆる心の奥深い部分に触れたくないのではと考えられます。彼女の行動心理に若々しく(子供っぽく)いたいというのがありましたが、それもウサギが見えなくなるのを恐れるうえでの行動かと思います。

ではセツはそうでしょうか。彼女は大人でありながらウサギが見えています。では、彼女はそういうものに触れていないのかというとそうではなく、しっかり大人とした対応もできるのです。なぜこのようなことになっているのかというのは彼女の芸術家という一面にあるのかもしれません。彼女は1度劇中でミスミが見えなくなりますが、再度、視認できるようになります。ここから考えられるにセツはそのような深層心理を糧にして芸術を行っており、深層心理が比較的表に出てきやすいのではないか、もしくは深層心理自体が己の完成になってしまっているのではないかと考えられます。それ故にずっとミスミを見ることができるのかもしれません。

では、ウサギを持たないヒト、ミツキは何でしょう。

彼女のウサギは双子の姉に譲ったという話が出てきます。また、一卵性双生児では2人につき1羽のウサギが付くとの設定もありました。そして、彼女はウサギがいない代わりに他人のウサギが見えるのです。

ストーリーの中で、ウサギを分け与えた姉は病弱でなくなってしまったこと、また、ミツキは良い子に見られようとしていたということが語られます。また、姉であるセツが気を使っていたのが分かっていたというエピソードもあります。このことから考えるに、彼女は早熟だったのではないかと考えました。

彼女は早くに大人になってしまい、それ故にウサギを持たなくなってしまった。逆説的に言えば、ウサギを持たぬからこそ早く大人になってしまったのではないかと思います。また、他人の気遣いに敏感であることから、他人の心理を読みやすくそれ故にほかの人のウサギが見えるのであると考えられます。

最後にトワはウサギがいないミツキにエンを共有しようといった話を持ち掛けます。自分はこれは深層心理の共有、つまりは、思い出の共有を行おうといったのではないかと思いました。奥深いところに大事にしまってある、もしくは、大事にしまいたくなるような記憶を共に作ろうとしたのではないかと感じました。

 

深層心理というと人間の汚い部分や醜い感情がピックアップされることが多いと思います。しかしながら、それだけではなく、生きたい、や、頑張りたい、なども深層心理には含まれると思うのです。そして、その醜さも美しさも両方受け入れる大人になったとき、ウサギたちは深層心理への道をヒトに譲り、見えなくなっていくのではないかと思いました。

 

こう感じることができたのもやはり役者の方々が素晴らしかったからだと思います虚さん演じるミスミはかわいらしさがありながらセツをいかに大事にしているかが、ハラグチさん演じるエンからはトワに無視されても寄り添う尊さを感じることができました。

 

設定自体は非日常感がありますが、話の内容自体はいつか起こりうることなのではないかと感じました。その時自分はどんな気持ちを大切にすべきか、そんなことを感じさせる舞台で本当に素敵な時を過ごしました。

 

これからのぴぴすとれっろさんの活躍が本当に楽しみです。

 

では、また。